あみちゅんの日記

ほぼ怪文書

フレンチクルーラーを選ぶときの澄み切った意志に憧れる雑念

私は日夜問わず脳内で議論する習性がある。
年が明けてからの3ヶ月は日々の議論が忙しなかった。
議論が白熱しすぎていよいよパンクしてしまった。それが1ヶ月ほど前の話。
今回は、かなりの時間を費やした議題「自分とは」について書いてみる。


私は、”自分”がわからない。世界中の誰よりも"自分”に詳しいことは確かだ。
それは誰しもそうなのではないか。
だからこそ”自分”がわからないのであろう。情報が過多すぎる。
私の中にある"自分"の情報すべてが自分だとは到底思えない。とはいえ取捨選択もまだできていない。


数多ある自分の情報の中で自信を持って"自分"だと思えること、
ミスドではフレンチクルーラーを、サーティーワンではラブポーションサーティーワンを一点の曇りもなく選ぶ」
これは間違いなく"自分"だ。
ここまで明瞭な"自分"は、私の脳内では稀有な存在である。
明瞭明確な"自分"が多く脳内を占めたら進路に迷うことがないのではないか。


大抵の"自分"はかなり複雑。
この複雑さを明瞭にしようと言語化する。
するとなんだか偽物っぽい。「これって本心?」という疑念が生まれる。
疑念が生まれると、私の行動に機敏さがなくなり鈍くなる。疑心暗鬼になる。
そして自分は本当は何を求めていて、何がしたいのか、何が好きなのか、わからなくなる。本当の"自分"ってどれだろう。


私はずっと疑心に振り回されているようだ。日々英気が吸われている。だから、疑心に惑わされたくない。世間体や憧れ、理想で取り繕った自分を排除したい。
疑心が生まれる原因は「理想と現実を区別できない」ことにある気がする。
理想主義が強いので常に「〜できたらいいな」が脳内を埋め尽くす。
そうは思っても、自分自身が憧れの対象のようになりたいかは別である。
その区別がはっきりしないのが今の自分だ。
残念ながら、解決方法はまだない。


自分が勝手に定義してしまった理想の"自分"を意識することなく、本当にやりたいこと、好きなもの、求めていることを理解したい。
そう願い絶えず思考しながら、行き場のない悶々とした日々を過ごしている。